常陸太田で水戸徳川家の面影ある史跡を巡って(西山荘、正宗寺、瑞竜山墓所)
令和6年(2024年)10月の私の茨城の旅、今回も水戸徳川家の面影を辿ってみたいと思います。
ただ、今回は前回の水戸市街を離れ、20キロ程北へ車を走らせた常陸太田市(ひたちおおたし)へ。
市の中心から少し西の山間の奥の方へと向かいました。ここに、いつか行きたいと思っていた場所があったので。
すると山の脇道を入った意外なところに、大きな駐車場と休憩所が。
これが西山の里 桃源(にしやまのさと とうげん)と呼ばれる休憩施設で、お土産屋やレストランも併設しています。
目的地はここではなく、この施設の中を通り抜けて行くのですが。
そこは山間の素敵な庭園といった感じ。
全く知りませんでしたが、ここは地元では知られた花の名所。特に花菖蒲で有名だそう。
そんな菖蒲田を通り過ぎ、谷間の小道を奥へと進みました。
左側に広がるのは梅園。ここは梅の名所でもあるのですね。
私が訪れたのは秋の10月。天気に恵まれた気持ちの良い日でした。
しばらく歩いた先に、背の高い杉が覆う山里が現れてきて。
これらは江戸時代初めに紀伊から移植された熊野杉だとか。
そして、その手間の門からちょっと特別な雰囲気の里の中へと入りました。
まあ、ここに入るのに1500円の入場料を払うのですが。
まさにこの場所に行きたかった。西山荘(せいざんそう)です。
木漏れ日が差す苔むす前庭は、和の趣たっぷりで荘厳な空間でした。
ご存じの方も多いでしょう。テレビドラマ「水戸黄門」でご老公が諸国へ旅立つのは、いつも西山荘の館からでした。
正直「水戸黄門」で知った場所。昔からどんな所だろうと想像していました。
そこには厳かな雰囲気ながら素朴なたたずまいの館があって。
これが水戸藩第2代藩主徳川光圀が隠居後に住んでいた御殿。
当時は西山御殿(にしやまごてん)と呼ばれていたとか。シンプルな茅葺屋根の平屋です。
この部屋は、御座の間。
光圀の居間で10畳間。特に装飾は無く粗壁の質素な造り。
まあ、これこそが62歳で隠居したご老公の望んだ暮らしだったのです。
藩主時代の江戸城や水戸城の栄華を離れ、華美を嫌ったそうです。
6畳間の御寝室も覗いてみました。
葵の御紋の長持(ながもち)が置いてありましたが、この部屋も質素。
元禄13年(1700年)、73歳で息を引き取ったのもこの御寝室だったとか。
ちょっと驚いたのは、御寝室の左隣の御学問の間。「大日本史」編纂の監修をしていたという書斎はたったの3畳間だったのです。
ここから御殿裏に建つ守護宅(しゅごたく)へ。
御殿を守護する家臣の役宅だそう。現在では資料館となっています。
そこに徳川光圀の生涯の年譜や家系図などが展示されていて。
更に、当時の御殿の書斎の様子を人形で再現していました。
こんな感じで3畳間で「大日本史」を監修したり読書をしていたのですね。
まあ、手前のLEDスタンドはどうかと思いましたが。
そして、こんな懐かしい写真も。
4代に渡るドラマ「水戸黄門」のキャスト。私も結構見ていました。再放送も多かったですよね。
ただ、この資料館でも詳しく説明されていましたが、やはり光圀が諸国漫遊の旅をしたというのは創作。
隠居してからは、藩内の視察は度々あったそうですが、江戸に上ったのが1度だけ。帰りがけに現在の千葉県北部(下総国)を巡ったくらいだったそうです。
その後、西山荘内をあちこち散策しました。基本的にここは自然あふれる山里。
水戸からも遠いこの地で、政治や世俗からかけ離れた生活を送っていた訳ですね。
10月の白蓮池(びゃくれんいけ)は、緑で覆われていました。
ここ西山荘で、光圀が情熱的に取り組んでいたのは学問。それは歴史書だけでなく、万葉集を始めとした国文学、考古学、神道、皇室儀礼、医学といった幅広いものだったそう。
御殿の近くには、数多くの書物を保存したであろう御文庫もありました。
徳川光圀の死後も、西山御殿は歴代藩主によって大切に維持されたそうですが、文化14年(1817年)の野火によって焼失。
現在の建造物はその2年後の再建だそう。実は、オリジナルは現在の3倍程の大きさだったとか。もっと立派だったのですね。
それから、ご老公は決して孤独ではなかった。
西山荘を出てすぐの所に、農業用水池がありますが、この辺りはかつて不老沢(おいぬさわ)と言われた場所で、西山御殿で光圀付けの家臣達が暮らした屋敷が並んでいたそうです。
お世話をする御家老から御納戸や小姓などの役人や医師まで。その小姓頭(こうしょうがしら)に佐々 介三郎(さっさ すけさぶろう)がいました。
「水戸黄門」の佐々木 助三郎(助さん)のモデルですね。実際は、儒学者であり光圀の側近であり勉強の助手でもあったそう。
ちなみに、渥美 格之進(挌さん)のモデルの安積 覚兵衛(あさか かくべえ)も儒学者。当時は年若く西山荘では光圀へ仕えていなかったと思われます。
現在この池のほとりにあるのは晏如庵(あんじょあん)。
光圀が茶の湯をたしなんでいたことにちなんで建てられたとか。まさに風情ある茶室で、抹茶や和菓子が味わえますが、この時はまだ営業時間前。
私はそれを待たずに西山荘を離れ、常陸太田市の歴史スポットを巡るドライブを継続。
少し北の増井町にある正宗寺(しょうじゅうじ)へ。
ちょっと道に迷いながら辿り着きました。源氏の名門佐竹氏の菩提寺だったとのこと。
実は常陸太田市は、この佐竹氏が平安時代から室町時代まで470年に渡り常陸国を治めた本拠地でした。
佐竹義宣(さたけ よしのぶ)の頃には、秀吉から54万石を安堵され戦国大名でもありましたが、関ケ原の合戦後に出羽国秋田へ国替えに。
その後、正宗寺は水戸徳川家の崇敬するところに。ただ、天保9年(1838年)に焼失。
現在の本堂は昭和63年(1988年)の建設だそう。
本堂の裏山には、佐竹一族の墓が静かに残されていました。
これらの宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、佐竹氏の誰のものかは不明なのだとか。
やはり国替えで先祖の墓も分かりづらくなってしまったのでしょう。
そんな佐竹氏の墓の近くにはこの方のお墓が。
佐々宗淳(さっさ むねきよ)、すなわち介三郎のお墓です。
西山荘の不老沢で光圀より2年程早く亡くなって正宗寺に葬られたのですね。
佐々介三郎宗淳は、光圀の命で史料収集のため各地へ足を運んだそうで、神戸市の湊川(みなとがわ)に楠正成(くすのき まさしげ)の墓碑建立を指揮したりもしています。これが明治に入って湊川神社創建の起源といわれますね。
そんな介三郎の墓標の撰文はなんと安積覚兵衛だったとか。何となく、助さんと挌さんの当時の関係が伝わってくるような感覚でした。
さて、今度は徳川光圀はどこに眠っているのか。
そんな思いを持って、正宗寺からもう少し北へ車を走らせました。
常陸太田市の瑞竜町(ずいりゅうちょう)、山の合間にのどかな田園地帯が広がっていました。正直、どこにでもありそうな田舎の風景。
そんな地形の山間の道を登っていくと瑞竜山(ずいりゅうざん)というバス停に着きました。
周囲にキバナコスモスが奇麗に咲いたバスの終着駅。10月中旬でしたから。
ここから少し歩いたところに目指していた場所がありました。
古そうな門の手前には更に金属製の門で閉ざされていて。
ここは予約による限定公開。予約無しの私が入れないのは分かっていました。まあ史跡ですが私的で厳かな場所なので。
ここは水戸徳川家墓所の瑞竜山。この先の山の合間の広大な敷地に、水戸徳川家の一族の約200基のお墓が並ぶそうです。
大名家の墓所として日本最大級で、もちろん水戸光圀公も含まれます。その光圀公が支持した儒教式の墓所だそうで、菩提寺も無いとのこと。とってもユニーク。光圀公の教えは現代でもここに息づいているのですね。
とはいえ、正面の門前からはその一部がちらっと見えるだけ。
代わりにこの石碑をしっかりと眺め、いつか中に入ってみたいなと思いつつ帰りました。
今回、水戸徳川家墓所がこんな場所にあったんだと知れただけでも良かったです。
このように常陸太田市では、あまり知られていない史跡に触れられることを認識した次第です。
最後に、常陸太田市の史跡巡りドライブをしている時、お昼に食べたものをご紹介します。
それは名物の常陸秋そば。街道沿いの味のあるたたずまいの手打ちそば屋さんに入りました。
その名も竜神庵(りゅうじんあん)太田店。
ワンオペで大変そうでしたが、お店はお客さんで賑わっていました。
頂いたのは「つけけんちん蕎麦」。常陸太田の郷土料理だとか。
旬で香ばしい秋そばを、独特のけんちん汁と一緒に食べられて美味しかったです。
歴史の里、常陸太田は常陸秋そばの里でもあったのですね。とても満足できたドライブとなりました。
Seizan-so, Syoju-ji & Zuiryu-san, Hitachi-Ota, Ibaraki, Japan
この記事へのコメント
西山荘が水戸の先の常陸太田市に在るとかわかすかに判る程度でした。
今回は、西山荘、正宗寺佐竹一族の墓、瑞竜山水戸徳川家墓所と、
足で稼いだ?渾身レポになっていて、素晴らしいですね。
山里にあった素朴な平屋茅葺だったのですね。
なんか~舞台のセットみたいに見えますね(^o^)丿
長持だけが立派な感じなんですね~
書斎は3畳間でしたか。わたし3畳くらいの空間が大好きです(笑)
なんでも座して届きますから便利です。
上京したとき、3畳に住んでた事があります(^o^)丿
助さん、格さんも。おそばに住まってらしたのですね。
ドラマの世界が蘇ります。
晏如庵で戴くお抹茶や呈菓、絶対に戴きたいです(笑)
水戸徳川家墓所の瑞竜山にもお参りされたのですね。
中に入らずとも、お気持ちは伝わったと思います。
常陸秋そば、夫が蕎麦に目がないので、きっと喜びそうです。
蘊蓄を垂れながら、いつもお相伴していますから(笑)
西山荘に行かれたんですね。
私も車旅をしていた時に見学しました。
ここで水戸の黄門さんが寛いだり書物を開いたりしていたのだと
想いながら散策しました。
常陸の蕎麦を食べたくなりました。
されたんですね。TVの黄門さんは
何代か代替わりしましたけど、
やっぱり一番印象深いのは東野英治郎
時代の『水戸黄門』でしょうか。
隠居後の住まい、西山荘は、その役柄の
雰囲気にもぴったりだと思いました。
庭園は新しいものでしょうけど、
周囲の里山が隠居生活に相応しい気がします。
世を忍び、学問に打ち込むには最適ですね。
秋田藩佐竹氏のルーツが、ここに
あるというのも興味深い気がしました。
これは興味深いですね
実は茨城にどうしても行きたい所が2ヶ所あるので、つけけんちん蕎麦と共に訪れてみたいと思います
でも日帰りだとあわただしいし、泊まるのもちょっと微妙なんですよね(^^;)
落ち着いた佇まいの素敵な所ですね
実際には旅をしておられなかったっていうのは何か残念です
悪人を懲らしめるエピソードがあったのかと思っていました
左上の写真が私の中の黄門様御一行です
おばあちゃんが一緒に暮らしてたので時代劇は色いろ見てました(笑)
つけけんちん蕎麦も美味しそうですね
郷土料理いいですね
佐竹氏が平安時代から室町時代まで470年に渡り常陸国を治めた本拠地と言う事ですが随分力を持った人だったのですね。
静かな山里と言う感じの所です。
ご無沙汰しました。早々にコメントを頂き有難うございます。
黄門様の面影のある史跡をめぐる旅をされたのですね。質素な西山壮、隠居された光圀公にぴったりのたたずまいですね。助さん、格さんのモデルになったご家来も実在していたとは、でも諸国をめぐられていたのではなかったのですね。
水戸徳川家の墓所へも巡られて、素敵な史跡旅でしたね。
常陸太田の郷土料理「つけけんちん蕎麦」も美味しそうです。ハナショウブやウメの季節に出かけるのもよさそうですね。
徳川光圀公が晩年過ごされた隠居所ですか。
きれいに管理されていますね。レポもとても
よくわかりました。お蕎麦が美味しそう、
けんちん汁もいいですね。
水戸黄門は父が好きで観ていたこともあって
一緒によく観たことがあります~☆
西山荘の入り口の雰囲気も風情があって素敵な場所ですね。
隠居後の質素な佇まいの建物も、印象的で
静かな里山の風景が好まれたんでしょうね。
ミクミティさんならではの細やかな記事がほんとうに有り難いです。
ここで大日本史の編纂などに励んでいたのですね。
水戸黄門のドラマ、祖父母が大好きで見ていたので私も東野英治郎さんの黄門さんをよく見ていました。懐かしいです。
どれもこれも知らないことだらけで、「ぶらタモリ」を見ているようでした。とても勉強になりました。
実際に自分の目で見て歩いてみるって、いいですね。
華やかな雰囲気は見られませんね。
狭い書斎で大日本史の監修だけでなく幅広く学問と
向き合っていたことに感心しました。
ドラマでは武道で頼れる存在の助さんと格さんですが
モデルが儒学者と言うのはちょっと意外ですね。
光圀公には菩提寺がなく儒教式で一族200基のお墓な並ぶ
大名家最大級の水戸徳川家墓所に興味が湧きました。
竜神庵のつけけんちん蕎麦が美味しそうです。
西山荘は光圀が隠居後に住んでいたお屋敷ですね。
水戸黄門でも出てきましたね(^^)
ドラマ水戸黄門の4代に渡るキャストの写真もあるのですか。
ちょっと見てみたいです(^^;
助さん格さんにもちゃんとモデルがいたのですね。
西山荘のある所、緑が多くていいところですね。立ち寄ってみたいです(^^)
私も昔ドラマをよく見ていました。
やはり諸国漫遊は創作でしたか。
助さん格さんのモデルもいたのですね。
お墓は離れた所にあるんですか。
水戸徳川家の墓所に200基ものお墓が並んでいるとは
日本最大級ですね。
常陸秋そばが美味しそうです!
そうですね、実は行く前から楽しみにしていたところ。
それ程知られていないので、いろんな情報を盛り込んで詳細なレポートとなりました。西山荘という名前はずっと知っていましたから。
瑞竜山の水戸徳川家墓所は、またいつか行っては行ってみたいと思います。
常陸太田市に光圀の隠居所があったのですね。
博学な上に後世のために隠居してから活動開始するなんて中々出来ません。
藩主時代から構想していたのかもしれませんね。
梅園もあり今なら見頃か。
行ってみたくなりました。
はい、水戸黄門一行が出立なさるのは西山荘からでした。
それは、ここが光圀の隠居所だったから。時代劇で知りました。
山里の素朴な平屋茅葺でしたね。
やっぱり葵の御紋がポイントです。長持が目立っていました。
書斎は3畳間というのも驚きでした。
少なくとも助さんは、西山荘近くに住んでいたのことが分かりました。
まあ、ドラマは全くの創作なのも確かですが、、。
その後、水戸徳川家墓所の瑞竜山へも。ただ中には入れませんでした。
水戸ではない常陸太田氏にあるのが意味アリです。
ランチで、常陸秋そばが食べられたがの嬉しかったです。
さすが、西山荘に行かれたことがありましたか。
やはり、ドラマ「水戸黄門」でお知りになりましたよね。
私も昔から行ってみたいなと思っていました。
今回、ようやく行けて嬉しかったです。
常陸の秋蕎麦も食べられてよかったですよ。
はい、黄門さんの足跡を巡るドライブでした。
私も「水戸黄門」で印象的なのは東野英治郎さんでした。
何度かシリーズがありましたが、いつも初回は西山荘のシーンから。
そんな隠居所に行ってみたいとずっと思っていました。
素朴な茅葺屋根の平屋。お城とはだいぶ違ったと思います。
そうですね、世を忍び、学問に打ち込んでいたことでしょう。
そして、常陸太田市は、秋田藩佐竹氏のルーツなのですよね。
はい、黄門様の西山荘へ行ってきました。
まあドラマで知った場所にいつか行きたいと思っていました。
非常に素朴な隠居所でしたよ。
ところで、茨城にどうしても行きたい所が2ヶ所ありますか。
確かに日帰りでも行けますが、ゆっくり巡るには宿泊がいると思いますよ。
はい、西山荘は徳川光圀の隠居所。
水戸からはかなり離れた、山里の中にありました。
実際には全国の旅などしてなかったというのは知られています。
ただ領内の視察はよくしていたそうですから、悪人を懲らしめたことがあったのかも。メインは古き日本を知る学問だったはずです。
とはいえ、ドラマ「水戸黄門」は爽快でしたよね。
たまには、久しぶり見てみたいなと思いますが。
西山荘、ご存じなかったですか。
まあ、私もドラマ「水戸黄門」で知ったのですが。
確かに、歴史好きには興味津々のスポットだと思います。
今回行けてよかったです。
そもそも常陸太田市は、佐竹氏の本拠地。
そんな歴史をお持つ場所に、水戸徳川家は墓所を作ったのです。
はい、黄門様の面影をめぐるドライブをしました。
水戸からかなり離れた山里の中に、西山壮はありました。
質素な隠居所、徳川光圀の人柄も感じられますね。
助さん、格さんのモデルになった家臣の存在も感じられました。
助さんは、諸国を旅してたかもしれませんが、ご老公はそんな自由は無いですよね。
常陸太田にある、水戸徳川家の墓所も訪ねました。
水戸からかなり離れた場所を選んだというのが興味深いです。
郷土料理「つけけんちん蕎麦」。美味しかったですよ。
はい、西山荘は徳川光圀が晩年過ごされた隠居所。
水戸からはかなり離れた山里にありました。政治からは離れ学問に集中していたことが伺われました。
ドラマで知った場所ですが、今回行けてよかったです。
やはり、ドラマ「水戸黄門」をご覧になっていましたか。
高視聴率の長寿番組でしたからね。西山荘はドラマで知ったのです。
それは水戸から離れた山里にあって、素朴な茅葺屋根の平屋でした。
素朴で風情ある隠居所。学問に集中できたのでしょう。
自然と歴史を感じる場所でした。
西山荘、水戸からかなり離れた静かな山里にありました。
光圀の隠居所であり、お付きの家臣もかなり住んでいたのです。
政治からは離れたこの場所で大日本史の編纂などの学問に励んでいたのです。
水戸黄門のドラマも、東野英治郎さんも懐かしいです。
もういちど西山荘のシーンを見てみたいです。
西山荘、ご存じなかったですか。
まあ、有名な場所ではないですよね。私もドラマで知った場所ですから。
「ぶらタモリ」のようと言って頂くのは光栄です。
自分の歴史的興味で巡ったドライブでした。
西山御殿は確かに質素なたたずまい。
ご老公が過ごした御座の間や御寝室にも華やかな装飾は一切無かったです。
更に狭い書斎で大日本史の監修をはじめ幅広い学問を。
確かに、家臣からは尊敬されたことでしょう。
ドラマに登場する助さん・格さんのモデルが儒学者というのがリアルな現実。ドラマはかなりの創作ですよね。
更に、水戸徳川家の墓所は菩提寺がない儒教式。
それも、光圀公のご遺志が息づいていると感じました。
はい、西山荘は光圀が隠居後に住んでいたお屋敷。
それは水戸からかなり離れた山里の中にありました。
やはりドラマ「水戸黄門」に出てきたのを覚えていますか。
そんな場所をいつか見てみたいと思っていました。
助さん格さんのモデルとなった家臣の面影もありましたよ。
はい、水戸からかなり離れた常陸太田市の山里に、「西山の里桃源」があって、その奥に西山荘がありました。
そこは隠居後の水戸光圀の御殿。素朴な茅葺屋根の平屋でした。
やはり、ドラマをよくご覧になりましたか。
諸国漫遊の旅は創作と聞くと、ちょっと残念ですよね。
助さん格さんのモデルの家臣も儒学者ですからね。
一方で、水戸徳川家の墓所も常陸太田市にあります。
日本最大級の大名墓所ですが、ほとんど知られていませんよね。
はい、水戸からはかなり離れた常陸太田市に光圀の隠居所がありました。
静かな山里にある素朴な住まい。人柄も感じますね。
確かに、名君であり非常に博学。その探求範囲も非常に広かったといいます。後世に残ることも意識していたと思います。
ここから水戸学が生まれたのですね。
梅園や花菖蒲園など、お花も楽しめますよ。
助さん格さんのモデルとなった人物は薄々は知ってましたが。また、ご老公一行が全国漫遊なんか出来るわけがないことも。
必ずに見ていた水戸黄門、懐かしく思えたし、一度は訪れたいです。
西山荘って、こんな感じだったのですね。やはり質素にして独特な佇まいの茅葺屋で雰囲気が良いですね。
写真からも鈴虫の声が聞こえて来そうですし、隠居後にゆったりと勉学に勤しむには最適な場所だったのかも知れませんね。
ただ、私もTVドラマ「水戸黄門」を何話かは見たことが有ると思うのですが、ここからの出立は見たことがない、と言うか全く気付いてませんでした。ww
助さん角さんもドラマとは違うとは言え、実在の人物だったのですね。ミクミティさんの歴史探訪記、勉強に成ります。
西山荘と聞き、思い出しましたか。
水戸黄門のオープニングやエンディングで出てきましたよね。
いつも旅姿なのに西山荘では雰囲気がガラッと違って。
そんな思いを持って、こちらへやって来ました。
私も、助さん格さんのモデルとなった家臣のことは少し知っていました。
それを今回あらためて実感しました。
ご老公一行が全国漫遊なんかできなかったこと、それも感じますよ。
はい、西山荘へ行ってきました。
ドラマ「水戸黄門」で知ったご老公の隠居所がどんなところか、知りたかったのです。質素な佇まいの茅葺屋根の平屋、その趣を味わいました。
隠居後にここで精力的に勉学に勤しんだのでしょう。
ドラマでは、シリーズの初回や最終回に登場していたと思います。
助さん角さんのモデルの存在も、ここで感じられますよ。
久しぶりに良いお天気になったのですが、
夕暮れ時からまた雨になりました。
黄門様の生活の様子を拝読している間、耳の奥で
テレビのテーマソング流れていました。
隠居をしてからは「大日本史」編纂の監修をしたいと
目的を持っておられたのですね。
助さんも格さんもドラマのようなことはしていないが
役目を持ってそばにおられたようですね。
墓所も今から思えば随分新しい考え方をされておられた。
本当にいつもながら歴史に疎い私にも分かりやすくて
楽しませて頂きました。
今は、三寒四温の時期で、天気が変わりやすいですね。
はい、常陸太田市で黄門様の隠居生活に思いを馳せました。
確かにドラマ「水戸黄門」で知った場所、どんな所か見てみたかったのです。テーマソングも懐かしいですよね。
本当のご老公は、全国漫遊をしていた訳でなく、西山荘で「大日本史」編纂を監修していたのです。それを実感できました。
助さんも格さんは儒学者で、ご老公の傍に仕えていたのは確か。
主に勉学の相手だったと思います。
水戸徳川家の墓所は、確かに先進的ですね。それも光圀公の影響だと思いました。
管理が行き届いているんですね。
西山荘の入り口は風情があり素敵ですね。
隠居後の建物は、質素なのにステキです。
静かな里山の風景は私好みです。
お蕎麦がとても美味しそう、
けんちん汁好きです。作ろうかな!(笑)
はい、西山荘は徳川光圀が晩年過ごされた隠居所。
史跡として今も大事に維持管理されていますね。
それでも、東日本大震災でかなりの被害があって修復されたそうです。
そして、今も西山荘の入り口は風情がたっぷり。
その奥ある質素な茅葺屋根が上品なたたずまいでした。
確かに、静かな里山の風景でした。
茅葺きで質素で不要な飾りもなくて
自然の中で生きている感じが伝わってきます。
ホッとする景観ですね。
でも、冬は寒いかな〜〜・・・
つけけんちん蕎麦・・これもいいですね(^o^)
徳川光圀の隠居後の生活にどっぷりつかることができたのですね。
隠居後の生活として理想的だなと思いました。
光圀は実際には諸国を漫遊していないと聞いたことがありますが、
助さんのモデル佐々介三郎は、光圀の命で史料収集のため各地へ足を運んだそうでなぜかほっとしました。
佐竹氏はここから青森に国替えとなったとか、
正宗寺には佐竹氏一族のお墓がまだ残されているとか、
水戸徳川家墓所には200基ものお墓が並んでいるとか、
いろいろ興味深く読ませていただきました。
西山荘は、茅葺屋根の平屋でとても質素で飾り気も無かったですが、上品な風情がありました。確かに、自然の中で生きている感じですよね。
こんな場所で隠居生活を送ったのです。冬は寒いでしょうね。
常陸太田のつけけんちん蕎麦、食べられてよかったです。
はい、ドラマ「水戸黄門」の初回はたいてい、西山荘から。
ここからご老公ご一行は、諸国への旅立って行きました。
ここは徳川光圀の隠居所。学問に没頭していましたし、全国を旅することは許されなかったでしょう。
一方で、家臣の佐々介三郎は、それなりに全国各地を旅したと思います。
だから、助さんのモデルになったのでしょうかね。
この地は、佐竹氏の故郷。正宗寺には佐竹氏一族のお墓で時代を感じました。一方で、水戸徳川家墓所は広大な墓地だそう。
常陸太田市にもいろんな史跡がありました。
特に何があるというわけでもないですが、僕も山里の落ち着いた雰囲気が気に入っていました。
佐竹氏の菩提寺には気づきませんでした。
もとの佐竹氏の居城の常陸太田城は、現在学校になっていて、見るべき遺構もないのですが、周囲に一時的に佐竹氏が本拠を移した山城が点在していて、いくつか行ったことがあります。
しかし大名も移転してしまうと、地元ではほとんど忘れ去られてしまいますね。
瑞竜山も行ったことがありませんでした。
なるほど、予約制だったのですね。
西山荘の質素さは趣深いですねえ。。やはり華美な世界に長くいて隠居で離れると静観で簡素なものに浸りたくなるのは、人間の本質なのかもしれませんねえ。。
さすが、西山荘には何度か行かれていますか。
そうですね、特に何があるというわけでもないですが、風情ある山里と茅葺屋根の風景はいいですよね。上品さも感じました。
正宗寺は、佐竹氏の菩提寺。常陸太田に佐竹氏の面影が少し残っていますね。お城はほぼ見るべき遺構が無くてちょっと残念でした。
瑞竜山、なかなか予約を取るのも大変そうです。
常陸太田に西山荘、あまり知られていないと思いますが、意外に史跡が多く歴史を感じる場所です。つとつとさんなら、私以上に興味深く散策できると思います。
西山荘は質素で上品な魅力がありました。
徳川光圀の性格や趣味を反映しているなと感じました。
それでも家来衆は多かったと思いますが。