水戸城跡と弘道館を散策し水戸の学校巡り
令和6年(2024年)10月の私の茨城の旅、今回も水戸散策のレポートを続けさせていただきます。
当然ながら、水戸は徳川御三家の水戸藩の城下町。と言いながら、偕楽園は有名でも水戸城のことはあまり知られていないような気が。
そこで我々はJR水戸駅前のホテルに宿泊し、駅周辺の水戸藩の史跡や名所を朝夕と巡りました。
まずは、JR水戸駅北口に建つこちらの銅像から。
ご存じ「水戸黄門 助さん 格さん像」です。平成5年(1993年)の設置だそう。
以前訪れた時にもあったなと思いつつ、まあこれは史跡ではないですが、今回もご挨拶。
その北口の歩行者デッキの奥まで行くと、緑の高台にある白い櫓(やぐら)がビルの合間から顔をのぞかせていました。
「あれっ」、以前はあんなの無かった。はい、これはまだ令和3年(2021年)に復元された水戸城の二の丸隅櫓(にのまるすみやぐら)。
水戸城跡というと、以前は何にも無いなと感じて印象が薄かったのですが、最近になって色々とお城の復元が行われているのです。
それは、駅前から5~6分歩いて行き、急な階段を登った所にも。
「おおっ」、いきなり立派な大手門が登場します。
これも令和2年(2020年)の復元でまだまだ新しい。水戸城の格式ある正門といえるでしょう。大手橋から撮影。
さっきまで歩いていた橋の下の道路は、お城のお濠だったことを実感。
早速、大手門をくぐって旧水戸城内へと入りました。
そこは、かつての水戸城の二の丸跡。
ただ、当時の建造物はほとんど残っておらず、現在は様々な学校が並ぶ学園街のようなエリアになっています。
まずは、茨城大学教育学部付属小学校。明治7年(1874年)創立の茨城師範学校の跡地だそう。
少し進んで左手に見えてくるのが、水戸市立第二中学校。
とはいっても一見、中学校には見えないですよね。いずれもお城のような白壁に城門を備えた学校なのです。
ここは、かつて「大日本史」を編纂する機関である彰考館(しょうこうかん)があった場所。
水戸藩第2代藩主徳川光圀が江戸藩邸で始めた「大日本史」編纂事業を、水戸で引き継いだのがこの彰考館でした。
今は、水戸城跡二の丸展示館が隣接しています。
その展示から、ここが当時の「水戸学」の中心地であったことが伺われます。
現在、水戸城跡を貫く道は「水戸学の道」として整備され、道の両脇にある学校の壁や門がいずれも城郭風になっているのが面白い。
二の丸展示館も、令和2年(2020年)のリニューアル、新しいです。日本遺産「近世日本の教育遺産群」に指定された水戸の史跡の情報発信を担っているとか。
中でひと際目を引くのが、やはりこの「大日本史」の展示。
明暦3年(1657年)に開始し、完成したのが明治39年(1906年)という、とてつもない長い大事業だったのですね。
そして、少し道を進んで、茨城大学教育学部付属小学校の敷地をぐるっと奥から回り込むように歩いた先に、これがありました。
水戸城二の丸隅櫓(すみやぐら)。先程、駅前から眺めた櫓の内側です。完全な逆光でしたが。
よくこんな学校の合間に造ったなと思いました。
令和3年(2021年)の復元ですから当然新しい。
水戸城の歴史や遺構、復元に至る工事の説明などがパネルで展示されていました。
こうやって散策していくと、平成の終わりから令和に入って水戸市が水戸城跡を大々的に整備してきたことが分かります。
お城で地域振興しようという意思が感じられました。以前の水戸城跡と比べると大違いです。
一方で、二の丸の「水戸学の道」のもう少し進んだ左手に、いかにも風格ある大きな木がそびいていて。
これが天然記念物「水戸城跡の大シイ」の2株。戦国時代から自生し樹齢400年のスダジイの木とのこと。
水戸徳川家が来る以前、水戸城が佐竹氏の居城であった頃から水戸城を知っていると思うと、畏敬の念を感じます。
水戸二中のシンボルと言われていわれてきたそう。
その近くの脇道を校庭沿いに歩くと、二中見晴らし台があります。
すると、眼下には那珂川(なかがわ)の大きな流れ。
ここが落差のある高台であることを実感。つまり、水戸城が那珂川の河岸段丘の上に築かれたことがよく分かりました。
また道へ戻ったところに建つのが杉山門。
二の丸の坂の下、城の北口にあった門で、現在はここ「水戸学の道」に設置されています。平成27年(2015年)の復元とのこと。
道の右手に見えているのが水戸第三高等学校。この水戸三高の校庭には、かつて水戸城の天守にも匹敵する三階櫓(さんがいろ)があったそうですが、残念ながら昭和20年(1945年)の空襲で焼失。
更にもう少し歩くと、再び道が橋となるので、金網越しに橋の上から恐る恐る覗き込みました。
「わぁ」、両側が凄い傾斜。それに下に電車が(水郡線)が走っている。
ここもかつて水戸城の濠だったのですね。少し先の水戸駅付近まで、江戸時代は千波湖だったはず。
石垣こそ無いものの、地形を活かした堅牢なお城だなと感じられました。
この橋は二の丸から本丸へ渡る橋。これを渡るといよいよ水戸城の本丸です。
そこにあるのは、、。天守でも御殿でもありません。
水戸第一高等学校の校舎。茨城県トップクラスの高校ですね。
お濠を挟んで2つの県立高校が向かい合っているのが珍しい。
その水戸一高の入口の脇で存在感を放っていたのがこの門でした。
水戸城薬医門(やくいもん)。
この門こそ、水戸城に現存する唯一の建造物とのこと。建造は戦国時代、佐竹氏の時代だったそう。
高校の構内にあるのが実に不思議な感じ。
そもそも、水戸城は天然の要害に築かれた歴史のある城。平安時代末頃には最初の館が建造され、馬場氏、江戸氏、佐竹氏と領主が変わり、江戸時代になって徳川家の支配下に。家康の11男徳川頼房(よりふさ)が水戸藩主になったのは慶長14年(1609年)でした。
そんな歴史を感じながら、水戸城跡を散策して再び大手門へと戻ってきました。
以前は学校ばかりであまりお城をイメージできませんでしたが、やはり復元建造物があると実感が湧きます。
水戸藩35万石水戸徳川家の居城ですからね。もちろん日本100名城のひとつ。
この日は、大手門の上階が開放されていたので、上に登って真新しい窓から見下ろしてみました。
あちらは西側、大手橋の向こうは水戸城の三の丸です。
そこに見えるのは江戸時代の学校。すなわち水戸藩校の弘道館(こうどうかん)です。
正直、水戸城より弘道館の方が知名度はあるでしょう。
これは重要文化財の正門。もちろん、弘道館の中へも入りましたよ。私にとっては15年振りでした。
弘道館は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(なりあき)により天保12年(1841年)に開設。
斉昭の強力な藩政改革を担う施設でした。その一方で藩士や領民を楽しませる偕楽園も造営したのですね。
その門内には、いきなり「左近の桜」が。
斉昭の正室として有栖川宮家から吉子女王が降嫁した時、京都御所紫宸殿(ししんでん)前の桜の苗木を賜り、弘道館に植えられたことが始まりだそう。
その2代目が、昭和38年(1963年)に弘道館と偕楽園に植樹され、偕楽園の「左近の桜」は令和元年(2019年)の台風で倒木。弘道館のものは今なお健在なのです。
その隣には、斉昭お手植えの松もあったり。
今も端正で美しく、訪問者の目を楽しませてくれます。
幕末当時、日本一の規模を誇る藩校と言われた弘道館。学問と武芸の両方が重視されました。
その学問の範囲は、儒学・歴史・数学・地図・和歌・医学・薬学・天文学など、幅広い分野を学ぶ総合大学ともいえる教育機関だったとか。
その中心的な建物がこちらの正庁(せいちょう)。
現存の建築で重要文化財になっています。
左側の縁側の上に掛けられた扁額(へんがく)も斉昭の自筆とのこと。
様々なところに、斉昭の熱い思いがこもった藩校だったことが伺えます。
その熱さは、正庁の玄関からも感じられます。
「弘道館」と書かれた斉昭自筆の扁額の奥には、大きく「尊攘(そんじょう)」と書かれた有名な掛け軸が。
水戸藩医の松延 年(まつのべ ねん)の書だそうです。
よく知られているよう幕末に全国で湧き上がった尊王攘夷の思想の起点はここ弘道館ですよね。
正庁の部屋に上がって、格式ある正席の間(せいせきのま)へ。
ここに藩主自らが臨席し、学問や武術の試験を眺めたのだそう。
床の間には、弘道館の建学精神を刻んだ弘道館記碑の拓本が掛けられ、ぐっと重みがあります。斉昭の原案をもとに藤田東湖が起草したものとか。
更に奥に進んだところには至善堂(しぜんどう)。
藩主の子息達の勉学の場であったそう。すなわち、もちろん徳川慶喜もここで学びました。
更に、この一番奥の御座の間(ござのま)は、15代将軍を辞した慶喜が明治元年(1868年)に謹慎生活を送った場所でもあるのです。
傍らにあったこの長持(ながもち)も、慶喜が使っていたものだとか。
当時の慶喜の心境はいかばかりだったか。そんなことを想像しながら、格式ある見事な逸品だなと感じ入りましたよ。
そんな徳川斉昭の熱意と徳川慶喜の失意の面影を残す弘道館の正庁でした。
外へ出ると、実は弘道館にも梅林があります。
10月だったのでは花は無く、今頃梅まつりで盛り上がっているでしょう。水戸の梅の名所は、偕楽園だけじゃないですね。
更に庭園の奥に行くと、鹿島神社があったり非公開の孔子廟(こうしびょう)があったり、。
いずれも、斉昭が示した神と儒教の一致を図る「神儒一致」の精神を具現化した施設が並びます。
そんな斉昭の建学の精神が刻まれた弘道館記碑が納めらている八卦堂(はっけどう)。
中にある碑は非公開ですが、その拓本は先程ご紹介した正席の間にありましたね。
弘道館は外にも、このような数々の史跡があって見応えがあります。
本当に徳川斉昭は熱い殿様で「烈公(れっこう)」と号されるのも当然、とあらめて感じる場所でした。
最後に、弘道館のあった旧水戸城三の丸を更に西へと散策したので簡単にご紹介します。
やはり大きく目立つのが、茨城県三の丸庁舎。
昭和5年(1930年)に建設されたかつての茨城県庁です。今でも重厚なレンガ造りが印象的。
この日は周囲でイベント開催中でした。
そのすぐ近くには、水戸市水道低区配水塔(すいどうていくはいすいとう)があって目を引きます。
この優雅で美しい建造物が、長く水戸市の水道の配水を担っていたとは実に興味深い。昭和7年(1932年)の建造で、水戸の近代化を引っ張ってきたことでしょう。
その左奥には水戸東部館という大きな剣道道場があったり。この辺りは、水戸城に隣接した有力武士の屋敷が並んでいたはず。
その少し先にあるのが、今回、最後の学校の紹介です。
水戸第二高等学校。
茨城県下でも歴史ある女子高です。
まあ普通の現代風の校舎ですね。最近は男女共学になったそうですが、男子学生はいないとか。
そんな女子高を、おじさんが熱心に撮影してるのは間違いなく変ですよね。とは言っても撮影したかった。
理由は、ここは私の母の母校であるから。約70年前に母がここに通っていたのかとちょっと感慨がありました。
母への土産話に、この水戸二高の写真を見せましたが、変わりはてた姿にあまりピンと来ず。それよりも、私が買った「のし梅」を懐かしく喜んでいました。
Mito castle, Kodo-kan, Shools in Mito, Ibaraki, Japan
この記事へのコメント
さすが、徳川御三家の一つだった水戸藩の居城だった場所を
丹念な紹介レポありがとうございます。
まるで、行った気分になれました。
「女子高を、おじさんが熱心に撮影」~、おお、潜入取材?なんてか。
オミヤに藁苞の水戸納豆は買いましたか?
やはり、水戸というと先ず思い浮かぶのは、水戸黄門と助さん格さんですよね。多分にTVの影響が大きいですが、、この像のモデルとなったのはどの俳優さんでしょうか?w
水戸と言うと余り歴史的建造物が思い浮かばなかったのですが、こうして見ると流石に色々な史跡が残っているのですね。ま、現代建築に変わって仕舞ったところも有りますが、それでも往時の想いに浸れますね。
高校は、、70年も経てば変わりますよね。私の卒業した小・中・高校から大学までも、今はすっかり変わって仕舞ってますし。。w
おばあちゃんが一緒に住んでいたので時代劇は色いろ見て育ちました(笑)
水戸城跡はこんな風になってるんですね
門や櫓が再建されてるのはいいと思います
◯◯跡って石碑みたいなのがあるだけやと?ですもん
弘道館は見学出来るんですね
県庁も良いですけど、水戸市水道低区配水塔が素敵です
最後はお母様の母校なんですね
70年変らない建物ってなかなかないです
のし梅とはどんなものなんでしょう
お母様が喜ばれてたのは何よりでしたね
水戸城は二度訪問しました、何時ものことですが解かりやすい説明で
懐かしく成りました。
茨城県庁舎と水戸水道低配水場は初めてでした、二の丸隅櫓はコロナ禍
で入場出来なかったです。
水戸城薬医門は鮮明に記憶しています。
きれいに復原整備されて、昔の姿が
偲べるようになりましたね。
その大手門の中が学園街という事は、
茨城大付属の小学生を始め、学校に通う
児童・生徒・学生さんたちの多くは、
この門を潜って登校する事になるんでしょうか。
だとすると、何だか、昔のお侍さんの
登城風景を思わせるものがあって…。
最後の水戸市水道低区配水塔、平成年間まで
使われてた実用施設と思えないほど
優美な姿をしてるので、前から憧れてました。
昭和モダンの空気が感じられますね。
水戸城址後に復元された水戸城二の丸隅櫓などから
当時を想わせる杉山門、水戸城薬医門などへのつながりで
以前の水戸の繁栄と当主の熱意が伝わってきます。
今もその内側には学問を学ぶ学校があることからも
教育を重視した藩であったことがうかがえますね。
今も長い白壁に立派な門をくぐって通う学生の
気持ちも引き締まりそうです。
弘道館での学びの姿も見えるようです~☆
素敵な解説、ほんとうにありがとうございました。
茨城県と聞いても、あまり観光地が思い浮かびません。関西ではと言うより私の私見です。水戸黄門はあまりにも有名ですが。
じっくり腰を据えて回りたいと思いました。
「水戸黄門 助さん 格さん像」があるんですか?
それも、面白いですね~~
最近になってお城に関わるいろいろなのが復元されてるのも面白いです。
これも地域活性化の一環なんでしょうか。
「大日本史」を編纂する機関である彰考館があったのですね~
スタジイは食べられますよね。
武蔵野日赤に大きな樹があって
そのドングリに足を取られて転びそうになったことがあります(笑)
曰くの左近の桜は弘道館では健在なのですねーー
慶喜さんが、ここで謹慎生活をなさったのでしたか。
長持ちはさすが!逸品ですね~
ほんとにどんなお気持ちで過ごされたのでしょうか。
お母様の母校、水戸第二高等学校、
息子さんが代わりに見てきてお話されたのですね。
のし梅を召し上がりながら、きっと感謝しておいでだったでしょう。
弘道館は重要文化財らしく素晴らしい建物ですね。
水戸藩の歴史や思想が感じられますね。
水戸市水道低区配水塔、美しい建物ですね。水道のための建物とは思えないですね。
水戸城って、復元が進んでいるのですね。
知りませんでした。
昔の敷地内に学校があるのが面白いですね。
知らないことがたくさんあり、勉強になりました。
見ると親しみが湧いてきます。
水戸城の復元や遺構の整備など地域振興の為に
市が力を注いだ効果が写真からも伝わってきました。
水戸城薬医門は現存する建築物として堂々とした風格がありますね。
樹齢400年と言う戦国時代から水戸城の歴史を見てきた
「水戸城跡の大シイ」が素晴らしいです。
弘道館正庁の外観と内部にも重要文化財の重みを感じました。
水戸といえば偕楽園、千波湖そして黄門様は出てきても水戸城は思い浮かびませんでした。
遺構はほとんどなかったのですね。
そんな中でも博識を活かして厚いレポートに流石です。
徳川御三家ですから城はさぞかし立派だったでしょうね。
今はいろいろ活用されているので天守の復元は無理でしょうか。
水戸駅北口の「水戸黄門 助さん 格さん像」、史実では水戸光圀は諸国漫遊の旅には出ていないという事なので、どうせなら「風車の弥七やうっかり八兵衛、かげろうお銀」も仲間に入れてやればいいのにと思ってしまいました(^^)
私は平成の初期に水戸にいましたが、その後にいろいろとお城の復元が行われていたのですね。
水戸を離れてから数十年、久しぶりに訪ねてみたいですね。
水戸黄門漫遊記とありますが実際は諸国を漫遊していなかったと
言われてますね。
今はひたちなか海浜公園や偕楽園などの観光地が耳にします。
水戸は御三家の一つ、徳川家の城下町で栄えた歴史のある町
復元・再現された歴史的建造物の価値は高まりそうですね。
水戸城薬医門、大変立派な門構えですね。これが高校の校内にあるなんて。
「弘道」には道を広めるという意味合いがあるように
勉強を通して人間としての良い生き方を学び、人に伝えるようにと
弘道館が建造され、お城下は学び舎が多く存在してるのがうかがえます。
お母様の母校を撮影され、校舎は変わっても心の中ではきっと
懐かしさを偲ばれたことと思います。
今回の説明も素晴らしいですね。
本格的に復元された大手門や、二の丸隅櫓がいいですね。
お天気も良く散策が気持ち良かったですね。よく整備されて
いてきれいですね。歴史あるお母さまの通われた母校とても
感慨深いですね。
私が訪れた時はちょうど工事中でしたので、見せていただきありがたいです。
ドラマなどではいろんな描き方をされてはいるようですが、
藩士と領民両方を楽しませるための偕楽園、日本一の規模と言われる文武両道の弘道館をとおして、質実剛健、一本筋のとおった徳川斉昭を見ることができる気がします。
大手門をくぐって通学なんていいですね。
私の水戸観光レポートを褒めていただき光栄です。
徳川御三家の水戸藩の居城とはそれ程知名度が無いですよね
最近、かなり復元が進んだと聞いていたので、そのうち行こうと思っていたのです。それに、水戸は母の故郷でもあるので、、。
ちなみに、藁苞の水戸納豆は買いませんでした。冷やさないといけないので。
納豆はホテルの朝食で食べました。
はい、水戸といえば水戸黄門。多くの人はそうなりますね。
納豆という人もいるでしょう。
水戸駅の水戸黄門像のモデルは俳優ではないでしょう。誰でしょう。
最近になって、水戸城の様々な建造物が復元されていると聞いていたので、そのうち行こうと思っていたのです。以前はほんとんど印象になくて。
今回それらが見られて良かったです。
母の高校、そりゃ~70年も経てば全く変わりますよね。
それでも、現在の姿を撮りたかったのです。
水戸といえば黄門様に助さん格さんが浮かびますか。
多くの人がそうですよね。納豆が浮かぶ人もいるでしょう。
そんなには残っていないのですが、ある程度水戸城跡のイメージが掴めたでしょうか。最近になってようやくこれ位復元されたのです。
まあ、石碑だけも想像は巡らすのですが、やはり復元建築も大事ですね。
弘道館も見学しました。その近くの、水道低区配水塔はエレガントでした。
お恥ずかしいですが、花の母校を紹介させて頂きました。
「のし梅」は水戸のアメのようなお菓子です。
関西から水戸城は2度訪問しましたか。それはそれは。
以前の城跡の建造物はほとんど無かったですが、弘道館はなかなか立派ですよね。今は、お城の復元地区も徐々にできてきました。
茨城県庁舎と水戸水道低配水場、これは弘道館の裏側にあります。
二の丸隅櫓はコロナ禍で入場不可、コロナの時期に行かれたのですね。
近年になって水戸城跡に大手門や二の丸櫓が復元されました。
これでお城のイメージが高まります。更に復元建造物が欲しいところですが。
はい、水戸城跡は大手門をくぐると学園街のようです。
生徒たちは大手門をくぐる人もいるでしょうし、裏側の2つのルートを登ってくる人もいるでしょう。更に、バスで学校前に来るような気もします。
確かに、藩士達の登城と重なるものがありますね。
水戸市水道低区配水塔をご存じでしたか。
私は知らずに、今回初めて眺めて驚くほど惹かれましたよ。
水戸城跡に最近復元された二の丸隅櫓や大手門。
お城のイメージが高まりました。
その中で水戸城薬医門は時代を越えた本物。存在感がありました。
本当に学校が多いので、水戸が教育熱心な土地柄だなと感じました。
それは、徳川斉昭の弘道館から脈々と受け継がれているのかも。
そんなふうに思ってしまいます。
今も白壁に立派な門をくぐって通う学生、いい雰囲気ですよね。
そうですね、これだけ復元されて、ようやくお城らしくなりました。
以前はほぼお城のイメージが湧かなかったのです。
それでも、弘道館は見所です。
是非、偕楽園とセットで行かれて下さい。梅の時期は美しいはずです。
茨城県の観光地は知名度がまだまだ低いですね。
これから徐々に上がっていく気がします。
どうでしたか、偕楽園に行かれても水戸市街に行かないという人も多いでしょう。私としては、まず「水戸黄門」の本拠地。
それを体現するのが「水戸黄門 助さん 格さん像」ですね。
水戸城の復元建造物は最近になってから。やはりあると違いますね。
地域活性化の一環だと思います。
「大日本史」の編纂は偉大な事業だったと思います。
その少し先にスタジイがありました。食べられるとは知りませんでしたよ。
偕楽園で倒れた「左近の桜」は弘道館では健在です。
桜が咲いたところを見たいものです。
慶喜も眺めたことでしょう。
恥ずかしながら、母の母校、水戸第二高等学校をご紹介しました。
少しは当時を思い出したと思います。
はい、水戸城は最近になって徐々に復元建造物が増えてきました。
これでお城のイメージが湧くようになりました。
一方で、以前から弘道館は風格のある歴史的な建造物。
水戸藩の歴史や思想が感じられました。もちろん徳川斉昭の存在が大きいです。
水戸市水道低区配水塔はとってもエレガントでしたよ。
そうですね、最近になって水戸城の復元建造物が増えてきました。
実際、現役の学校が多いので、なかなか本格的な復元は難しいですよね。
教育熱心な水戸の伝統を感じました。
中でも、水戸市立第二中学校のくだりは目を引きました。
最近旅行には縁が遠くなりましたで、旅行に行った気分で読ませていただいています。
水戸駅の「水戸黄門 助さん 格さん像」、やっぱり微笑ましいです。
一般的には、水戸城より水戸黄門の方が有名ですからね。
とはいえ、最近は水戸城の復元建造物ができてきて、水戸市が力がを入れているのを感じました。
その中で、水戸城薬医門は現存する建築物。堂々たる風格が良かったです。
樹齢400年とスタジイも素晴らしかったです。
弘道館正庁の外観と内部に歴史を感じながら見学しました。
やはり、そうでしたか。
偕楽園、千波湖、水戸黄門、納豆が有名。水戸城は出てきませんね。
もともと建造物や遺構がほとんど無くて、、。
最近の復元建造物で想像を膨らませてレポートを書きました。
何しろ徳川御三家の居城ですから、スケールの大きいお城なのは間違いありません。天守の復元は、学校がある限り難しいかと。
水戸駅北口の「水戸黄門 助さん 格さん像」、やっぱり物語やテレビドラマで全国的に有名になりました。その目印が必要だったのでしょう。
平成の初期に水戸に住んでいたのですね。
おそらく、駅周辺は大きく変わったと思います。
最近は水戸城の復元建造物も増えて。
是非久しぶりに訪ねてみて下さい。
そうですね、水戸いえば水戸黄門と納豆でしょう。
水戸黄門漫遊記やテレビドラマはあまりに有名で、ひたちなか海浜公園や偕楽園も人気の観光地。水戸城が霞んでしまいますよね。
それでも御三家の居城ですから、立派なお城と城下町があったのです。
近年に復元された歴史的建造物、水戸市が力を入れているのを感じました。
その中で、水戸城薬医門は現存唯一の建造物、重みがありました。
「弘道」の意味をご存じで。実に、教育熱心だったと思います。
その伝統が今も残っているのでしょう。
母は、そんな伝統のある高校で青春時代を過ごしていたのだなと、思いを馳せました。少し思い出してくれたと思います。
今回は、意外に知られていない水戸城や城下について長々とレポートしました。ここは母の故郷でもあり、最新の状態を残しておきたかったのです。
復元された大手門や二の丸隅櫓、真新しいですが水戸城のありき日の姿をイメージさせれくれます。
お陰様で、天気に恵まれて気持ち良く散策したのを覚えています。
歴史ある母の母校も記録しておきたかったのです。
ちょうど、水戸城の復元建造物が工事中の時に訪れましたか。
それなら今回の私のレポートは、工事が完了した現在の水戸城跡を取り上げています。参考になれば幸いです。
徳川斉昭は歴史ドラマに登場することもありますね。
厳しく情熱的であったと思いますが、庶民を楽しませる気概も持っていたのですね。それにしても、日本一の規模といわれる弘道館。
水戸には教育熱心な伝統が息づいていると思いました。
母の故郷でも水戸の現在の様子を長々と書いてしまいました。
今の水戸城跡は本当に学校ばかり。それが城郭風になっているのが面白かったです。最近のことですね。
少しでの旅行気分を味わって頂けたなら嬉しいです。
有名な水戸のご老公が頭に浮かびます。
大河ドラマで徳川慶喜が謹慎生活のくだりが
ありましたが、ここだったのですね。
歴史苦手な私でも繋がってきました。
立派な建物と歴史を感じながら歩くのは
楽しかったでしょう。
お母様の建て替わった母校に感慨はなく
のし梅を喜ばれたのが微笑ましく感じました。
そうですね、水戸と言えば水戸黄門を浮かべる人は多いでしょう。
実際は創作ですけど。
本当の話としては、弘道館で徳川慶喜が謹慎したこと。
もちろんその前に上野寛永寺でも謹慎していましたが。大河ドラマ「青天を衝け」で描かれていたのは上野だったと思います。
母の出身高校に私は感慨がありましたが、当人の母はそれ程でもなかったようですよ。
ここ数年の間に水戸城の復元が進んだのですね。
昔の城跡には学校がいろいろ建ち並んでいるんですね。
その学校の壁や門が城郭風とは趣があって良いですね。
樹齢400年の水戸城跡の大シイも素晴らしい。
第一と第三があって第二は?と思ったら、女子高なんですか。
お母様の母校だったのですか。
70年も経過するとすっかり様変わりしてしまいますね。
甘酸っぱいのし梅は喜んでもらえて良かったですね。
そうでしたか、茨城を旅された時、偕楽園は行かれませんでしたか。
となると、水戸城は尚更ですね。
実は、ここ数年水戸城の復元が進んだので、また行ってみたいと思っていました。学校の壁や門もお城風になっていたのが変化だなと思いました。
そこにそびえる樹齢400年の水戸城跡の大シイ、歴史の証人ですね。
はい、水戸二高は古い女子高校です。
昔から母に聞かされていました。ただ校舎は全く変わってしまいますよね。のし梅は喜んでいました。
黄門様ご一行の銅像があるんですね
これだと水戸に来たって感じがダイレクトにしますね(^o^)丿
旧水戸城内にある二の丸展示館なんてのがあったなんて、全く知りませんでした
歴史好きのミクミティさんには時間が足りないぐらい見どころがあったのではないでしょうか?
自分は食い気だけなので、那珂湊お魚センターの方に足が向いちゃうと思います(笑)
茨城県へ何度も行っていても、水戸駅は使ってなかったですか。
そうなんです、ここに黄門様ご一行の銅像があります。
何かホッとしますよ。
そこから、歩いて旧水戸城跡へ。現在は二の丸展示館など展示施設があります。以前訪れた時違って、復元建造物を眺めてお城をよりイメージできました。
残念ながら、那珂湊お魚センターへは行かなかったのですが。
大手門も2階には行ってません。
まあ県民的には、復元建物がない時代も、水郡線や道路の走っている空堀がとてつもなく巨大なので、それを見てるだけである程度楽しめてました。
県立図書館の前にある空堀も大きいです。
現在茨城県の県立高校は、建前上すべて共学になっているはずですが、水戸二高のOGはみな今も女子高だと思っているようです。
以前「水戸二高を受験したい」という男子がいたそうですが、諸事情を考慮して結局やめたそうです(笑)。
水戸城二の丸隅櫓は以前行かれましたか。そうですよね。
中は、展示は少な目ですが奇麗でしたよ。大手門の2階もがらんとしていましたが、木の美しさを感じました。どちらもまだ新しいということです。
さすが、家ニスタさん。復元建物がない時代も、十分お城を堪能できたのですね。私は正直もの足りなかったのです。
確かに幾つかある空堀は迫力がありますね。
はい、現在の茨城県の県立高校は、建前上すべて共学と聞きました。
でも、水戸二高は相変わらず実質女子高のようですね。
まあ個人的にはそれでいいのかと思います。
母の母校だからかな。
もう10年近く前なのでほとんど忘れてしまっていましたが、ミクミティさんの記事を拝見してなつかしく思い出しました。
太平洋戦争の空襲で多くの遺構が焼失してしまったのは残念でなりませんね。
2016年に水戸城は行かれましたか。
おそらく、その当時の水戸城とはかなり様相が変わっていると思います。
私も以前はあまり印象が無かったです。
それでも、今回は復元建築のお陰でお城に行ったという記憶が残りそうです。
空襲は残念ですよね。