小雨の中、明智神社から越前大野城へ
引き続き令和5年(2023年)8月、私の「福井の旅」のレポートを綴らせて下さい。
それは8月15日、ちょうど大型の台風7号が日本列島に上陸した日でした。東海道新幹線は計画運休。各地で台風の被害もあり、ものものしい日だったことを思い出します。
前回は、一乗谷朝倉氏遺跡。半日かけて博物館見学と遺跡巡りで充実の時間でした。
その一乗谷でランチを食べた後、山の中の道を車で3-4キロ程走りました。かつて朝倉街道と言われた道。
森が開けたところに、東大味町(ひがしおおみちょう)の集落がありました。
車を停めて、小雨が降る中、住宅地の奥へと進んだのです。
そこにポツンと祠(ほこら)と小屋がありました。
低いですが石垣に囲まれた一角。
ここが目指していた明智神社(あけちじんじゃ)。小さな小さな神社です。
真夏でしたのでサルスベリが咲いていました。
この場所が、かつて明智光秀が朝倉家に召し抱えられ、約6年間住んだという屋敷跡。
一乗谷の城下ではなく、決して豊かではなかったとか。大河ドラマ「麒麟が来る」でも、ここの家で過ごした時代が描かれていましたね。
はるばる来たので、祠にお参りしました。
この祠は、地元で「あけっつぁま」と呼ばれるているそう。
そう、明智光秀を祀っています。この中に高さ13cm程の木彫りの座像が安置されているとか。地元で慕われていたことを感じます。
それもそのはず、織田信長によって朝倉家が滅ぼされ、柴田勝家が越前一向一揆の掃討戦を展開する中、光秀の安堵状があったおかげで、この町は戦禍をまぬがれたとされます。
祠の脇には、枯れかけた白い桔梗の花も。真夏の暑さにやれたのかも。
そうでした、明智光秀と言えば桔梗の紋ですからね。
更に傍らには、こんな石塔もありました。
光秀の家族を祀ってあるのでしょうか。
光秀の家族の中には、後に細川ガラシャとなる三女の玉(たま)がいて、玉もこの地で生まれたのです。
それを記念した立派な石碑もありました。
今でこそ貴重な史跡となっていますが、逆臣の明智光秀を祀ることは長い間、許されない時代が続いたそうです。
地元の3軒の農家が光秀像を数百年の間、隠し守り続けたことで今の明智神社があるのです。まるで隠れキリシタンのような凄い話ですよね。
近くの小さな資料館を覗いて、ここを後にしました。
さて、小雨が降り続いていましたが、今度は車を一気に20キロほど走らせ、更に内陸にある大野市のお城へと向かったのです。
小さな山の麓の駐車場から見上げると、ずっと石段が続いていました。亀山といいます。
小雨なので猛暑という程ではなかったですが、それでも真夏。暑さの中、気合を入れて登りましたよ。傘を差しながら。
山の中腹から見下ろす日本的な風景。
山々に囲まれた盆地に水田が見えました。ちょっと、ホッとしたことを覚えています。
こちらは、お城の西側の登り口でした。
更に山を登っていくと、立派な石垣が現れます。
お城に来たことを感じますね。ここが越前大野城(えちぜんおおのじょう)。
しばらくして、ようやく天守とお目見えです。
雨風がありましたが、やはり嬉しいですね。
天守は昭和の再建で鉄筋コンクリート製ですが、周囲の野面積みの石垣が素晴らしかった
なかなかの風格、重厚ですよね。
そもそも、越前大野城は、織田信長の赤母衣衆(あかほろしゅう)の一人、金森長近(かなもり ながちか)が天正4年(1576年)に築城。
その金森長近の像が近くにそびえていました。
出家姿でユニークな像。雨にしっとり濡れていました。
天守からは、大野市の市街地が見渡せます。
かつては越前大野藩の城下町だったことでしょう。
天気が悪かったので、ちょっと霞んでいました。台風が来ていたので仕方ありませんね。
それでも、私の目に鮮やかに写ったのは、石垣に沿って植えられたオレンジの植栽。
雨天のグレーばかりの景観の中で際立って美しかったです。
真夏の紅葉?
雨雫に濡れたこの葉は何でしょうかね。そんなことを想いながら、お城を降りようと。
ふと石垣前の自動販売機が目に入りました。
これがまたユニークでした。自動販売機に描かれた写真。
これが越前大野城のもう一つの顔。隣の犬山(いぬやま)からの風景、こちらの方が代表的な景観でしょうか。
側面にも大きな写真がプリントされていて。
はい、この越前大野城は「天空の城」として知られていますね。
晩秋からの冬にかけて、雲海の上に顔を出す天守の姿。確かに幻想的で見事ですが、実際にこれを眺めるのは大変でしょうね。
私としては、雲海のシーンには出会ってはいませんが、全国的に「天空の城」として有名な備中松山城(岡山県)、但馬の竹田城(兵庫県)とともに、ここ越前大野城へも来ることができて満足でした。
この後、越前大野城の東側の大手門の方に回りました。
大手門広場には、漢字の「野」の字のモニュメントが2基あって、「なにこれ?」。
これまたユニークですよね。大きな「野」だから「大野」かなと思いました。
後から知りましたが、「野」のモニュメントの左側に立って、大きく手を広げ「大」をポーズする写真スポットなのだそう。
大野市観光課も色々と工夫していますよね。
その山の上には、さっき訪れた越前大野城の天守が顔を見せしていました。
続日本100名城に指定。江戸時代には越前大野藩の藩主土井家の居城として明治を迎えています。
最後に、越前大野城の城下にあるもう一つの史跡へも訪れましたので簡単にご紹介します。
それは、朝倉義景(あさくらよしかげ)墓所。
江戸時代にかつての家臣の子孫によって建立された五輪塔が建っています。
一乗谷の朝倉館の横にもお墓がありましたが、実際に朝倉義景が亡くなったのはここ大野だったのですね。
織田信長に一乗谷を攻められ、従兄の朝倉景鏡(あさくら かげあきら)の裏切られた最期でした。
そんな墓所の周囲は整備され、湧水が流れ出る公園になっています。
その水は、義景清水(よしかげしょうず)と呼ばれ、「ふくいのおいしい水」に認定されています。
この日はずっと雨降り。夏の青モミジの先端は、ところどころ真っ赤に紅葉していて。
雫に濡れた葉が、綺麗でとても印象的でした。
日本列島に台風が上陸した日でしたが、こんなふうに何とか史跡巡りの観光ができて、あらためて感謝する次第です。
Akechi Shrine & Echizen Ono Castle, Fukui, Japan
この記事へのコメント
明智神社がここに有るのですか、初めて知りました。
勝てば官軍で、勝利者によって歴史は書き換えられて行きますが、地元では偉人として称えられている歴史上の人物も多いですよね。
越前大野城は「天空の城」としても知られているのですか、寡聞にして知りませんでした。一度はこんな「天空の城」の写真を撮ってみたいものですが、、これを撮るには天気を見極めて通い詰めないとダメなのでしょうね。ww
明智神社、小さな神社ですね。
3軒の農家の方が光秀像を守られたのですね。
素晴らしいですね。越前大野城、見晴らしがいい
でしょうね。石垣もきれいですね。下から見た
お城もきれいですね。台風の上陸、でも観光が
できて良かったですね。
福井に明智神社があるんですか。
光秀のお陰で戦火を免れたということで、
光秀像を数百年もの間守り続けた農家の方々の苦労は、
感動するお話しですね。
ここから越前大野城へ行きましたか。
天空の城ですね。
晩秋に行ったとしても、雲海から顔を出す天守の姿は
見られそうもないですが、眺めてみたいと思います。
由来が光秀らしいと思いました。
光秀は日ごろから村々で暮らしている庶民の目線に立って
考えておられた方だったから、後世まで村人の記憶に
残り大事にされているのだと思いました。
集落にある光秀の屋敷跡の祠が神社として守られている
由来が光秀らしいと思いました。
比叡山のケーブルカー乗り場近くの坂本にも
ゆかりの集落ありますよね。
山の中腹からの眼下の景色、ほっとします。
野面積みの石垣が素朴でいて剛健な感じを受けました。
あの、「天空の城」なんですね~
なかなか交通の便が難と聞いたことがありますが
お車ならなんてことないのでしょうか。
青モミジの新葉は時として赤味を帯びますね。
その近辺を走り回った日を思い起こしています。
福井に明智神社があるんですね~!
明智光秀と言うと、私の感じでは知性の人かと思います。
歴史の中で翻弄されても地元の方の想いがこの神社を残したのでしょうね。
細川ガラシャもその血筋の中で生きていたんだろうと感慨も深いです。
越前大野城の石垣もいい雰囲気ですね。
ミクミティさんの紹介で、様々な石垣を知り、興味を持って眺めています~☆
小さな明智神社にまつられた明智光秀、地元では慕われていたことが分かりますね。大河ドラマ「麒麟が来る」でも東大味町での生活が描かれていました。
越前大野城は行ったことがあります。お城まで一生懸命登りました。お城へ入った途端、雨が降ってきて困りました。お城の入り口に傘がおいてあり、「ご自由にお使いください」との張り紙、「麓のお店に返してください」とあり、いいおもてなしにうれしくなった記憶があります。ここも雲海のお城として有名ですね。見ようと思えば地元の旅館にしばらく滞在し良い日に巡り合わないと難しいと思います。「野」のモニュメントはまだ新しいでしょうね。私が行ったコロナ前にはありませんでした。インスタ映えなど、いろいろ考えられていますね。
台風上陸の日なのにあまり影響もなく史跡の観光できて良かったですね。
自然なカーブの具合が、昔の街道らしさを
感じさせますね。その先にある明智神社。
明智光秀のその後を反映したのか、
小さな小さな祠の姿が、歴史を偲ばせる
ように感じられました。土地の人々に
「あけっつぁま」と呼ばれ、親しまれて
いるのが救いのようにも思えます。
越前大野は、小京都と呼ばれた歴史的町並みに
心惹かれてました。階段が大変そうですが、
お城の立地も素晴らしく魅力的ですね。
細川ガラシャ(玉)の出生地が在りましたか、珍しいですね。
越前大野城も車旅で訪れましたが昔の事と成りきおくが無くなりました
が雰囲気が蘇りました。
地元の人たちには慕われていたのでしょうね。細川ガラシャが明智光秀の娘だということを知ったのは永井路子さんの小説で知りました^^
朝倉氏の100年の歴史が詰まった
一乗谷朝倉氏遺跡も勉強になりました
ガラシャが生まれた里に建つのが
明智神社なんですね
明智光秀が福井にゆかりがあったことを知り
歴史に興味を持ちました
戦国時代の城は山の上に築城したところが多くて、景色の良いところがたくさんありそうですね。
「野」のモニュメント、自分で「大」の文字を作り、写真撮影。なるほど、やってみたくなります(笑)
明智光秀への御恩を忘れずに守り抜いた皆さまはすごいですね(^o^)
明智光秀ゆかりの地なんですね。
神社がどーんと立派でなく祠なのが心に来るものがあります。
大野城、なんか記憶があるようなと思ったら天空の城の一つでしたか。
山形では初冬に結構雲海が発生します。
でも残念ながらこのような山城はないのです。
地元の3軒の農家が光秀像を数百年の間、守ってくれたのですね。
少しホッとします。
お寺の多い街だなという記憶があり、越前大野城へも行ったような気がします。
最近ボケ気味・・・
小雨でも史跡めぐりの旅ができて良かったですね。
明智光秀ゆかりの神社があるのは知りませんでした。細川ガラシャが生まれた地でもあるのですね。越前大野城の野面積みの石垣に見応えを感じます。天空の城としても有名なのですね。雲海に出会うのは難しそうですが写真を見ると素晴らしく絵になる光景です。
明智神社、一乗谷の郊外にありました。
ひそかに明智光秀の座像を守り続けた農家の方々のお陰ですね。
ようやく戦後になって日の目を見たようです。
やはり地元でこよなく愛され尊敬される存在だったのでしょう。
越前大野城は「天空の城」として有名です。
とはいえ、その姿を眺めるのは大変です。寒くて辛いのが嫌いな私は無理でしょう。頑張った人が撮れるのでしょうね。
明智神社は、本当に小さなスペースで祠と小屋がありました。
かつての明智光秀の屋敷はもっと大きかったことでしょうね。
この地の3軒の農家が、本当に長い間、歴代に渡って光秀像を守ってきたのは奇跡的ですよね。
越前大野城、天空の城として知っていたのですが、石垣のイメージがありませんでした。野面積みの石垣が見事でした。
下から見上げた天守の風景、なかなか素敵ですよね。
台風上陸の日にこれが見られて嬉しかったです。
明智光秀というと京都の亀山城を思い浮かべますか。
確かに京都や近江に、様々な史跡がありますよね。
こちらの福井の明智神社は、まだ光秀は信長に仕える前の史跡なので、珍しい存在かもしれません。
私も、光秀のお陰で戦禍を免れた歴史があったとは知りませんでした。
次に向かったのは越前大野城。
天空の城として知られていますが、実際のその姿を見るのは大変ですね。
かなりの忍耐と運が必要だなと感じました。
明智光秀の屋敷跡に、その座像が祠に祀られ、現在は神社となっています。
それも、こちら農家3軒が歴代に渡り座像を本尊としてひそかに守ってきたからですね。光秀はこの村の人達のよい関係であったことでしょう。
光秀自体が村を守ろうとして、その村民が何代に渡って感謝してきたとは、本当に奇跡的ですよね。
竹田城とともに雲海が有名ですが、遠望の福井で雲海を見るにはハードルが高すぎです。せいぜい亀岡の霧のテラスぐらいでしょう。( ^_^)
朝倉義景墓所も興味があるので、こんど行けたらと思います。
そうですね、明智光秀の逸話は多いですが、こちらの明智神社は、光秀が信長に仕える前の史跡。結構、珍しいですよね。
この地の農家が歴代に渡って座像を秘かに守ってきた事実に驚嘆しました。こちらの祠に偉大さを感じました。
一方で、越前大野城、ここからの景色が日本的。
江戸時代もあまり変わらないのでは思ってしまいます。
野面積みの石垣が素朴で重厚でした。
「天空の城」のシーンは見られませんが、ここに来れたことが嬉しかったです。
真夏の紅葉、最近よく見かえるなと感じました。
はい、福井に明智神社があるのです。
まだ、信長に仕える前の時代の史跡、結構珍しいと思います。
明智光秀は、智勇兼備の武将だったのでしょう。
出世する前から庶民に溶け込んでいたのことが想像できます。
そんな村で細川ガラシャも生まれたのですね。
また、越前大野城の石垣は風格がありました。
天空の城へ行けたことが嬉しかったです。
小さな明智神社にまつられた明智光秀、各地を転々としたと思いますが、越前時代は庶民に近い存在だたっと思います。だからこそ、慕われていたのでしょう。
大河ドラマ「麒麟が来る」で越前時代が描かれていたのを覚えておられますか。当時はまだ大名になるとは思っていなかったでしょう。
越前大野城にも行かれたのですね。
やはり山頂の天守まで登りましたか。天気はいまいちでしたか。
今回の私もそうでした。傘が借りれたのはよかったですね。
ここは、天空の城として有名、そのシーンを見るのは運も忍耐も必要でしょう。なかなか難しいですよね。
「野」のモニュメントは、ちょうどできたばかりだったとのこと。
面白いアイディアですよね。今後も置かれるのでしょうか。
明智光秀が朝倉家に仕えていた事は「麒麟が来る」でも描かれていましたが、その屋敷跡が今では明智神社となっているんですね。
地元の農家3軒が逆臣扱いされていた光秀の像を隠し守り続けたことで、明智神社があるのですね。そのような歴史があったのですね。
「天空の城」と言えば竹田城跡が有名ですが、越前大野城も「天空の城」なんですね。雲海が広がるとまさに天空の城ですね(^^)
そういえば、井伊直弼も吉良さんも領国では慕われていた方の様で歴史上では憎まれ役というのも少し気の毒な気もします。
天空の城、雲海に浮かぶお城を見るためには季節、天候、時間となかなか大変なようですが、見られた人は記憶に残る素晴らしさでしょうね。
風格のある山城
現代に残っている石垣が
歴史をものがっていますね
実は、冒頭の道は朝倉街道から横に入った路地、すみません、書き方が悪かったと思います。ただ、こちらも古い道だと思います。
その先にあった明智神社。こんなところに、といった感覚でした。
実際、はるばる来ましたが小さな祠でした。ただ長い歴史を感じました。
土地の人々に現代でも「あけっつぁま」と呼ばれるのも凄いですね。
確かに越前大野は、小京都と呼ばれた歴史的町並みも特徴的ですね。
今回はお城に登りたくて。暑い中、階段を登りましたよ。
そうなんです、一乗谷の郊外に細川ガラシャ(お玉)誕生の地がありました。
ここに明智光秀が住んでいたなんて、、。不思議な感覚でした。
やはり、越前大野城へも行かれたことがありますね。
私は記憶に残るようブログを綴りました。
懐かしく感じていただけたなら幸いです。
そうなんです、明智光秀を祀った明智神社です。
まだ、信長に仕えるまにここに住んでいたそうです。
一般的に明智光秀は悪者扱いですよね。ただ、愛されていた事実もあるのでしょう。歴史の真実は分かりませんよね。
永井路子さんの小説「朱なる十字架」は読んだことが無く、読みでみたくなりました。
ここ東大味町は、一乗谷朝倉氏遺跡から数キロ離れた郊外。
その当時に、明智光秀一家がここに住んでいたそうです。
そして、細川ガラシャもここで生まれたとか。
この地が、現代に明智神社となっているのは奇跡的な気がします。
地元の人達の感謝と尊敬の念が代々引き継がれているのですから。
越前大野城も平山城ですね。
山の上からの景色は格別です。城下町を見下ろせるのもいいですね。
庫の麓にあった「野」のモニュメント。
自分の手で「大」の文字を作り、写真撮影できるスポット。
これが親子でできるよう2つあるようでした。
私も後から「なるほど」と思ってしまいました。
その時はやらなかったのですよ。
そうですね、一乗谷から少し離れた東大味町は、信長に仕える前の明智光秀ゆかりの地なのです。珍しいかと思います。
何百年経って、ようやく小さなが祠が建った聞くと、感慨があります。
地元の農家の方々の強さを感じました。
越前大野城、天空の城の一つ。本当は別の山から見下ろすといいのでしょうが。それまた天気が悪くて大変でして。
雲海の上に現れる姿を見るのは難しそうだなとも思いました。
白山を登山されたのですか、さすがですね。
越前大野へ行かれたのはその時ですか。大野城にも登りましたか。
この位なら私も登れるのですが。
明智神社は、一乗谷の郊外。地元の3軒の農家が光秀像を数百年の間、守ってきた事実に感じ入りました。
台風が来ていて、小雨ながら史跡めぐりができて良かったです。
一乗谷の郊外、東大味町に明智光秀ゆかりの明智神社がありました。
そう、細川ガラシャが生まれた地でもあるのです。
そこから、車を走らせて越前大野城へ向かいました。
天空の城のイメージが強かったですが、野面積みの石垣の風格も良かったです。やはり、なかなか雲海に出会うのは難しいですからね。
越前大野城へは行かれてませんでしたか。
確かに福井の中心からは結構距離がありますからね。
是非、次回にどうぞ。雲海狙いで、11月頃行かれてはどうですか。
竹田城と違って天守がありますからね。絵にはなると思いますよ。
福井県立恐竜博物館は、次に登場しますよ。
亀岡の霧のテラスも素敵でしょうね。
明智光秀が朝倉家に仕えていた頃のことが「麒麟が来る」でも描かれていましたよね。結構、お金が無くて苦労していたのようです。
その屋敷跡が今では明智神社となっています。
地元の農家3軒が何百年もひそかに光秀の像を隠し守り抜いてきたことは驚きです。凄いことですよね。
「天空の城」と言えば竹田城跡が有名ですが、越前大野城は天守がありますから、絵になるなとも思います。
いずれにしても、雲海のシーンを見るのは大変ですが。
そうですね、光秀は村人から慕われていたと思います。
ただ、領主という立場ではなかったでしょう。この頃は貧乏で苦労していたとされます。まだ信長に仕える前ですから。
おっしゃる通り、井伊直弼も吉良上野介も領国では慕われて尊敬されていたと聞きますね。両面あるのだと思います。
越前大野城は、天空の城。とはいえ雲海に浮かぶ姿を見るのは難しいだろうなと感じました。
風格のある石垣の上にそびえる天守。なかなか見応えがありました。
これを隣の山から見ろせると本当はもっと素晴らしいのでしょう。
天守は昭和製ですが、石垣は戦国時代からもの。歴史を感じますね。
明智神社ですか。
小さな神社のようですが、風情が感じられます。
3軒の農家の方が光秀像を守られた・・・
素晴らしいです!!!
越前大野城は、とても見晴らしがいいんですね。
下から見たお城も石垣もきれいです。
日本列島に台風が上陸した日でしたか。
なのに史跡巡りができて本当によかったです!
明智神社、小さな小さな神社でした。
昔ながらの住宅街の中にありました。
何百年にわたり3軒の農家の方が光秀像を守ってきたとは奇跡的ですよね。
越前大野城は、とても見晴らしがよかったです。
天空の城ですから、別の山から見るのが代表的な景観でしょう。
それでも、当時から残る石垣は立派でした。
日本列島に台風が上陸した日、観光しているのは申し訳なかったです。
お孫さんが福井大学の大学院ですか。
一生懸命勉強していることでしょう。観光する暇はあるのでしょうか。
卒業前に少し一緒に回れたらいいですね。
見所はいろいろありますから。
地元の3軒の農家が光秀像を数百年の間、隠し守り続けたて、今この神社があるそうで、残されていて本当に良かったです。
大野城を含めて「天空の城は」三つとも行きましたが、雲海の上に浮かんでいるところを見たことはありません。見るためには条件のそろった朝早い時間に見える山に行かなければならないのでしょうね。。素敵でしょうね。
丁寧に見て歩かれることからもミクミティさんは知識欲が旺盛で、歴史がお好きなのだなぁと感じます。
雲海の中の山城、美しい幻想的な風景ですよね。
とはいえ、実際に見るのは運も忍耐も必要でしょう。
この越前大野城は天守がしっかりと山の上から見えるのがいいですよね。
そういう意味では、備中松山城も本物が天守が建っています。
竹田城は石垣の遺構が綺麗に残りますが、天守は無いです。
それぞれの魅力があるかなと思いますね。
明智光秀を祀る明智神社。
一般的には逆賊ですから、現代になって再評価されてきたのは間違いないですよね。大河ドラマの主役になるくらいですから、時代も変わったのでしょう。地元に方々にとって、安心して祀れる時代になったわけですね。
地元の3軒の農家が数百年の間、像を隠し守り続けてきたのは、本当に凄いこと。それをしみじみ感じました。
一方で、「天空の城」は三つとも行きましたか。
私も今回でようやく。
でも、私も雲海に浮かんでいるのは見たことは無いのです。
運と気合いが必要だなと思います。
私にはそれだけの根性が無くて、、。
それでも行って見てみたい。やはり歴史が好きだからですね。
明智神社、私も以前から興味があったので、詳しい経緯などは知りませんでした。やはり、訪れて分かる点が多かったです。
逆賊として光秀を祀ることなんて、危険ですらあったと思います。
よく数百年も守ってきたと思います。
光秀がこの地に住んでいた頃は、生活も苦しくそれ程厚遇されていたわけではなかったはず。住民たちの領主というよりは、仲間という感覚があったかもしれません。
一乗谷の館跡からは、少し離れているのですね。
ガラシャもここで生まれたのですね。
ちょっと車でないと難しそうな場所ですが、そのうち機会があれば、僕も訪れてみたいと思います。
そうでしたか、明智神社には行ったことがありませんか。
一乗谷の館跡からは、結構離れています。車が無いと行けないと思いました。
細川ガラシャもここで生まれた場所。
ここに住んでいたのかと、思いを馳せました。
まだ光秀が戦国大名になるとは思っていなかったのではないでしょうか。
越前大野城をきずいた金森長親は織田軍団では目立たない存在ですが、城造りと城下町の造りは、信長の発想に匹敵するものがあります。大野は勿論、大野から移った飛騨や美濃の城造りと城下町の造成は、その土地に合わせた見せる城や町割り本当に面白いです。
大野城は今は二連の天守ですが、往時は三連結の天守だったそうです。大野の城下町は大野城の東側ですが、東西のみの道路で縦長の四つの長い町割り、高山城のらせん状の城下町、上有知のうだつ建築と小倉山城。知れば知るほど面白い人物です。
明智神社や義景墓所は、確かに訪れる人は少ないですよね。
正直、どちらも他の誰にも会わなかったと思います。
ただ、地元の人の深くて長~い愛着を感じました。
越前大野城を築いた金森長親は地味ですが、着実に仕事をこなす武将だったのではないでしょうか。築城や城下町の造りに才能も発揮したのですね。
それがここでも感じ取れるのですね。飛騨でも愛される領主となったことでしょう。
大野城は往時は三連結の天守だったのですか。